ライダー同士の挨拶に憧れていたはずなのに
免許を取る前から、YouTubeやSNSでライダー同士がすれ違いざまに手を振り合う「ヤエー」という文化があることを知っていました。見知らぬ人同士が一瞬だけ交差するその瞬間に、同じバイク乗りとしての連帯感を確認し合うようなあの光景は、私にとって憧れそのものでした。教習所に通っている間も、いつか公道に出て自分もあの挨拶を交わすんだと、ヘルメットの中でこっそりとイメトレをしていたくらいです。エストレヤが納車され、初めて公道に出た日も、心のどこかで対向車線からバイクが来ないかと期待していました。
けれど、現実は想像していたほど甘くはありませんでした。実際に公道を走ってみると、私の頭の中はバイクの操作と交通状況の確認だけでパンク寸前になってしまいます。信号のない一本道ならまだしも、カーブが続く山道や、交通量の多い市街地では、ハンドルから片手を離すという行為そのものが、とてつもなく高度なテクニックのように感じられるのです。ベテランのライダーたちが涼しい顔で左手を挙げて挨拶しているのを見ると、本当に同じ人間なのかと疑いたくなってしまいます。憧れていたはずのヤエーが、いつしか私にとっては少しプレッシャーを感じるイベントになりつつありました。
特に1人でツーリングをしているときは、頼れる人が誰もいない緊張感から、身体に余計な力が入ってガチガチになってしまいます。そんな余裕のない状態で対向車線からバイクが近づいてくると、嬉しいという感情よりも先に、挨拶されたらどうしようという焦りの方が勝ってしまうのが正直なところです。
一瞬の出来事が数キロ先まで心に残る
先日、天気の良い日に少し遠出をして、山あいの道を走っていたときのことです。緩やかなカーブを抜けた先で、対向車線から大型のバイクが走ってくるのが見えました。相手のライダーさんは、私とすれ違うかなり手前の段階で、とてもスマートに左手を挙げてくれました。その姿は本当に自然で格好良く、本来なら私もすぐに左手を挙げて振り返すべき場面でした。
しかし、その時の私はちょうどカーブの出口で車体のバランスを保つのに必死で、しかもタイミング悪くギアチェンジをしようとクラッチレバーに指をかけていた瞬間でした。「あ、ヤエーしてくれた!」と脳が認識したときには、私の手はハンドルを握りしめたまま凍り付いていました。頭の中では「返さなきゃ」と叫んでいるのに、左手を離したらバランスを崩して転んでしまうのではないかという恐怖心が勝り、指一本動かすことができませんでした。
結局、私は相手の方を直視することさえできず、まるで無視をするかのようにすれ違ってしまいました。ヘルメットの中で「ごめんなさい!」と叫んだ時には、もう相手のバイクはバックミラーの遥か彼方へと消えていました。ほんの数秒の出来事でしたが、その後のツーリングの間中、ずっとそのことが頭から離れませんでした。あのライダーさんは、私が無視したと思って気分を害されたんじゃないだろうか。せっかくの楽しいツーリングの気分を台無しにしてしまったんじゃないだろうか。そんなネガティブな妄想ばかりが膨らんでしまい、美しい景色も半分くらいしか目に入ってきませんでした。わざとじゃないんです、ただ余裕がなかっただけなんですと、誰にともなく言い訳を繰り返しながら走る道のりは、なんだかとても長く感じられました。
無理をしなくても心は通じていると信じたい
家に帰ってからも、あの一瞬の出来事を反芻して落ち込んでしまいましたが、冷静になって考えてみると、バイクに乗る上で一番大切なのは「安全に家に帰る」ことです。もしあそこで無理をして手を離し、バランスを崩して転倒してしまったり、対向車線にはみ出してしまったりしたら、それこそ取り返しのつかないことになっていたでしょう。挨拶を返せなかったことは悔やまれますが、自分の技量を超えたことをしなかったという点では、正しい判断だったのかもしれません。
ネットで調べてみると、私と同じように「ヤエーを返せなくて落ち込んだ」という経験を持つ初心者ライダーの方は意外と多いようでした。そして、ベテランのライダーたちの多くは、相手から反応がなくても「初心者で余裕がないのかな」「気づかなかったのかな」くらいにしか思っていないという意見も見かけました。それを読んで、少しだけ救われたような気持ちになりました。もちろん、返せるなら返した方がお互いに気持ちが良いのは間違いありませんが、返せなかったからといって自分を責め続ける必要はないのだと思えるようになりました。
今度からは、もし手を離す余裕がないときは、無理に手を挙げようとせず、ヘルメットの中で軽く会釈をするだけでもいいのかもしれません。ペコっと頭を下げる動作なら、ハンドルをしっかり握ったままでもできますし、相手の方がそれを見てくれている可能性もあります。もしそれもできないくらい余裕がないときは、心の中で「挨拶してくれてありがとう」と感謝するだけでも十分ではないでしょうか。いつか私も、あのかっこいいライダーさんのように、自然な笑顔と余裕を持って手を振り返せる日が来ることを信じて、今は自分のペースで走り続けようと思います。次にすれ違うライダーさんには、届かなくてもいいから、心からの笑顔を向けてみようと思います。
