眠れない夜にだけ開く扉
次の日が休みだと分かっているのに、なぜかどうしても眠れない夜があります。スマホを見ても心がざわつくだけで、部屋の明かりを消しても天井の染みを数えることしかできません。何があったわけでもないのに、漠然とした不安や、日々の生活で澱のように溜まったモヤモヤとしたものが、胸の奥につかえて取れないのです。そんなとき、私は決まってクローゼットからライディングジャケットを引っ張り出します。深夜2時、世の中が一番静まり返っているこの時間に、私は逃げるようにして家の外へと飛び出すのです。
マンションの駐輪場でカバーを外し、エストレヤの冷たいタンクに触れると、少しだけ呼吸が深くなるのを感じます。近所迷惑にならないように、少し離れた通りまで押して歩き、そこでエンジンをかけます。昼間の喧騒の中では頼りなく聞こえる単気筒のトコトコという音が、真夜中の静寂の中では力強い鼓動のように響き渡ります。ヘルメットを被り、シールドを下ろした瞬間、私は世界から切り離されたカプセルの中に入ったような安心感に包まれます。誰とも話さなくていい、誰の顔色も窺わなくていい、ただ私とバイクだけの時間が始まります。
目的地なんてありません。ただ、この息苦しい部屋からどこか遠くへ行きたい、風に当たりたいという衝動だけで走ります。アクセルを回すと、冷たい夜風がジャケットの隙間から入り込み、淀んでいた私の感情を少しずつ洗い流してくれるような気がします。夜の空気は昼間よりも澄んでいて、エンジンの音もクリアに聞こえます。この感覚を味わうためだけに、私はバイク乗りになったのかもしれないとさえ思うのです。
信号待ちの孤独と自由
昼間は大渋滞している幹線道路も、この時間だけは私の貸切です。視界の端を流れていく街灯のオレンジ色の光や、閉まった店のシャッター、誰もいない歩道橋。見慣れた街のはずなのに、深夜にバイクで走ると、まるで異世界に迷い込んだような不思議な感覚に陥ります。赤信号で止まると、あたりは恐ろしいほど静かです。聞こえるのは自分の呼吸音と、エストレヤのアイドリング音だけ。ふと隣の車線を見ても、そこには誰もいません。その圧倒的な孤独感が、今の私には心地よく感じられます。
世界中の人間が眠っている間に、私だけがこうして起きている。その事実は、私になんとも言えない優越感と、ほんの少しの寂しさを与えてくれます。孤独だけれど、自由。ヘルメットの中でなら、大声で歌ってもいいし、泣いたって誰にもバレません。時折、対向車線からトラックやタクシーが通り過ぎていきますが、彼らもまた、この夜という時間を共有している同志のように思えてきます。知らない誰かが働いていたり、移動していたりする光景を見ると、自分だけが世界から取り残されているわけではないのだと、妙に冷静になれたりするのです。
スピードを出す必要もありません。法定速度でゆっくりと流しているだけで、頭の中のごちゃごちゃした思考が整理されていきます。嫌な上司の言葉も、将来への漠然とした不安も、後ろへ後ろへと流れていく景色と一緒に置き去りにしていくイメージです。バイクの振動が、凝り固まった私の心をマッサージしてくれているのかもしれません。ただ走っているだけなのに、どうしてこんなにも救われた気持ちになるのでしょうか。
缶コーヒー1本分の小さな救い
1時間ほど走って身体が冷えてくると、明るい看板のコンビニや、ポツンと佇む自動販売機に吸い寄せられるように停車します。真夜中の自動販売機の光は、灯台のようになんだか温かく感じます。そこで買うのは決まって温かい缶コーヒーです。普段はブラックなんて飲まないし、カフェで飲むような美味しいコーヒーでもないのに、深夜の道端で、バイクの横に座り込んで飲むこの1本は、どんな高級な飲み物よりも美味しく感じられます。
かじかんだ指先を温かい缶で温めながら、静かに冷めていくエンジンの音を聞いているときが、一番穏やかな時間です。「さて、そろそろ帰ろうか」と、独り言を呟いて缶をゴミ箱に捨てるときには、家を出たときのあの重たい気分は随分と軽くなっています。完全に悩みが解決したわけではないけれど、「まあ、なんとかなるか」と思えるくらいの余裕は取り戻せているのです。
家に帰り着き、静かにエンジンを切ると、また元の現実に戻ってきたことを実感します。でも、今の私はさっきまでの私とは違います。冷たい夜風に吹かれ、バイクと対話してきた私は、少しだけ強くなっています。ベッドに入ると、心地よい疲労感とエンジンの振動の余韻が身体に残っていて、今度は嘘のようにすぐに眠りにつくことができます。私にとってバイクは、単なる移動手段でも趣味の道具でもなく、心のバランスを保つための処方箋なのかもしれません。また眠れない夜が来たら、私はきっとエストレヤと一緒に夜の街へ逃げ出すでしょう。そうやって自分の機嫌を取りながら、なんとかこの世界を生き抜いていくのです。
